江戸時代の平均寿命がとてつもなく短い理由…
その意外な理由が話題に…


人間五十年

「人間五十年、化天のうちを比ぶればゆめまぼろしのごとくなり」

織田信長が好んだ一説。

人間五十年とは人の一生は50年ほどという意味で
平家の時代から江戸時代の平均寿命を50年と考える説もあります。

江戸時代は現在のような戸籍制度もなく
生まれた子供の数を把握する仕組みがありませんでした。

幼児を数えない地域もあり、
正確なところは分からず推定値で計算されています。

そのため、50歳という説、35歳とする説など様々あり、
30〜40歳くらいと考えられています。

短命の理由は乳幼児にあり

江戸時代(その前の時代も)は
生まれて間もない子供の死亡率は高いことが特徴です。

12代将軍徳川家慶には27人の子供がいましたが
20歳まで生きられたのは1人だけ。

13代目の将軍となる家定だけでした。

11代将軍家斉もかなりのビッグダディで
53人の子供がいましたが成人したのは28名だけでした。

江戸城内の医療体制は医師が常駐し、
国内最高水準だったにも関わらず
なぜここまで成人率が低いのでしょうか。

理由は2点あり、
1つは水子の範疇である生後間もない子供がなくなっても記録されること
2つ目としては当時の化粧品に有毒物質が含まれていることが挙げられます。

化粧の白粉「おしろい」に含まれる鉛が特に深刻で
鉛中毒が役者の職業病になったほどです。

鉛は体内に徐々に吸収され、貧血や歯ぐきの変色、
便秘、筋肉の麻痺を起こします。

後遺症として知的障害が残るケースもありました。

当時は肌の白さが好まれ、高貴な人は顔だけでなく
上半身にべったりと白粉を塗り、
その厚さも後になるほど濃くなっていました。

母乳にまで白粉を塗りたくった為、
将軍家に限らず大名家でも病弱で
障害を持って生まれるケースも多かったそうです。

徳川将軍の世継ぎを産んで育てるためにあった大奥では
なおさらだったことでしょう。

七五三

当時の感覚を知る言葉として
7歳までは神のうち(神の子)という言葉があります。

7歳を迎えるまでは
「人間の形はしていても魂が遊離しやすい不安定な状態」
と考えられており、7歳になってようやく人間社会の一員とされました。

子供の成長を祝う行事が広まったのも
江戸時代からで例えば七五三。

画像は三代歌川豊国の「七五三祝ひの図」です。

華やかに着飾って神社に参詣し、
七五三のお祝いをする家族が描かれており、
無事に成長したことへの感謝と長寿を願い意味が込められました。

ご長寿も沢山いた

20〜30台まで無事に生きられると
その後は60歳くらいまで長生きできたそうです。

天才絵師として世界に知られる葛飾北斎は
90歳で亡くなるまで傑作を描いていましたし、
南総里見八犬伝の著者、曲亭馬琴も82歳まで生きました。

初めて正確な日本地図を作った伊能忠敬は73歳。

江戸時代の将軍は全部で15名ですが、
家康が75歳まで生きた事をはじめ、享年の平均は51歳でした。

69歳まで生きた徳川家斉の健康の秘訣を3つは

1.早起きと散歩
2.冬でも薄着
3.適度な運動

他にも打毬のような激しいスポーツも得意で
体力づくりに余念がなかったそうです。

江戸時代の老人観

歌川国芳の「田家茶話六老之図」。

老いを風刺した6つの狂歌が書かれた絵で
どんな狂歌かというと画面右から

「シワが寄る ほくろができる 背はちぢむ あたまはハゲる 毛は白くなる」

「手はふるふ 足はよろつく 歯はぬける 耳はきこえず 目はうとうなる」

「みにおふは 頭巾えり巻 杖 眼鏡 たんこ温石 しびん 孫の手」

「くどくなる 気みじかになる 愚痴になる 心はひがむ 身は古くなる」

「聞きたがる 死にとふながる 淋しがる でしゃばりたがる 世話をしたがる」

「またしても おなじはなしに 子をほめる 達者自慢に 人はいやがる」

今でこそ日本は長寿国となったわけですが
寿命が短くても辛いですが
長生きすると新たな病気となる可能性もあり、大変です。

少子化の問題を抱えつつ
高齢者の医療費も増えることが予想されます。

ネットでの反応

・長生きしたくありません。でも死にたくありません。

・無駄に長生きするより人生五十年、味のある生き方のほうが輝きがある。

・今の寿命が逆に長すぎるのかもしれないですね

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